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言語のサバイバル

「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」 水村美苗
日本語
昨秋の刊行以来、各方面で様々に論議を呼んだ本だ。僕もかなり前に読み終えていたのだが、今ひとつ書評を書く気になれず(実は最近そうしたパターンが多い)、時間を置いた今頃になってちょこっと見解を述べることにした(笑)

挑発的なタイトルだが、内容は特に過激なものではなく、外国語に堪能な著者自身の体験に基づいた、地に足のついた論考といえる。が、章立ては少々回りくどい部分もあるので、第三者の論評や資料なども参考にし引用させて貰い、強引にまとめてみよう。

著者は言語を機能から分析する。「普遍語」、「国語」、「現地語」。
特定地域で日常使われている「現地語」。その土地の人々の母語の体系は、様々な経緯で文字を獲得したとしても基本は「話し言葉」だ。それとは別に、聖典や高度な学問等、より普遍的な叡智を伝えるための「普遍語」がある。こちらは基本的に「書き言葉」となる。

たとえば、古くからヨーロッパでは古典文学や聖書を読むためにギリシャ語、ラテン語という「普遍語」の取得は必須であり、その過程でヨーロッパはヨーロッパなる叡智を共有し得た。一方、当時の人々も日常は各々の「現地語」で暮らしていたのだろうから、彼らは二重(多重)言語者だったともいえる。

やがて印刷革命、産業革命と歴史が進む中、普遍語で書かれた書物がヨーロッパ全域に普及し、従来話し言葉でしかなかった現地語も、書き言葉として整備されていく。政治的に諸地域を束ねた国民国家が成立すれば、普遍語で書かれた内容も現地語で書き得るようになり、やがて「国語」が成立する。「国語」は「国家」を強化するが、それでも普遍語の役割を果たす国語が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況だったろう。

ここで日本に舞台を移してみよう。
幸いにも我々は、巨大な中華文明の近くにありながら、日本海の荒波に隔てられ近過ぎることもなかった。「書き言葉」として漢字を輸入しつつも、仮名を発明し文化の自立性を保ったがゆえに、古代以来世界有数の優れた独自文学、文献を育み維持することが出来た。

近代に入り欧米列強の植民地化を免れた日本は、ヨーロッパとは少々異なる方法で「国語」を自ら構築し、ここでもまた他のアジア諸国にはほとんど例の無い、独自の近代文学、文学者を生み出すことに成功した。
著者によれば、漢学の素養を蓄えた日本語の実力が頂点に達したのは、二葉亭四迷から夏目漱石に森鴎外、谷崎潤一郎くらいまでの明治後半から昭和初期ということになる。西欧列強と互角の思考力を担う「国語」の建設に、近代文学が果たした役割は大きい。

その恩恵を得た我々、日本の作家の多くは、現在に到るまで「日本語で書くことを選ぶ」という意識は薄い。日本にはすでに豊かな近代文学の伝統と蓄積があり、市場として成立するだけの数を揃えた「日本語」読者を持っているからだ。

が、それは未来永劫安泰だろうか? 少なくとも質的にはどうか..

かつてはフランス語やスペイン語はもとより、さらに古い時代にはアラビア語なども普遍語としての役割を担えたが、十九世紀の大英帝国、二十世紀のアメリカの繁栄と続く中で、英語が事実上の普遍語の地位に登り、近年はインターネットの普及と経済的グローバリズムの展開により、「普遍語」としての英語の存在感は前世紀以上に強まっている。このあたりはフランス文学が専門の著者ならではの偽らざる実感なのだろう。

しかも旧来の米英圏では英語は現地語であり国語であり、しかも普遍語でもあるのだから、ここには圧倒的な非対称が確立することになる。英文で書かれヒットした小説は各国語に訳されるが、その逆は少なく、文学としての価値を問う前にそういう流れが出来てしまう。自然、広く読者を得ようと思うなら英語で書くのが近道になる。自国語と二重言語化する英語圏は今後アジアやアフリカでも増加していく。ネットを通じて英語圏には情報が一極集中化して流れ込む。

確かに、人類の叡智の蓄積は、一つの書き言葉でなされたほうが効率は良いのだろうが、これはITの専門家などもよく指摘することではあるけれど、日本語という城壁に守られた我々のネット空間は、英語圏のそれとは異質の進化、あるいは退化を遂げていこうとしいている。我々は本当の情報に触れているのか、世界の本質に迫っているのかと問われれば、どこまでも二次的、三次的なものに留まる危険性を持つ。これは民間ばかりでなく、米国に外交と防衛をコントロールされた政府からしてそうなのだから已む無しか。

究極的にはどういうことになるか。

いわゆる「話し言葉」としては日本語等の「現地語」は残る。が、「より高度な叡智を求める人々」による「書き言葉」は、その相当部分が「普遍語」たる英語に覆われてしまうのではないか。日本語で書かれる学術論文や小説は、世界的視野で見れば劣化していく一方ではないのか。

近代華やかりし時代においては、国語=国民=国民文学という等式がある程度までは存在し得た。国語は普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学は普遍的な内容を論ずることができるものだった。ローカルな問題であっても普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが、近代国民国家における国語による国民文学といえる。

その「国語」が堕落し、日本国内ですら「普遍語」でなくなってしまえばどうなるのか。日本語が、普遍語の役割を果たしうる国語であることをやめ「現地語」に逆戻りする。現地語のみを読み現地語のみで語る、他のものには触れないし読もうともしなければ、文学も、表現される知性も衰退する。まるで低俗化したテレビ番組のように、内輪のみに意識が向けられ、内輪の問題のみに言及し、やがて「外」から見放され衰退していく。日本語および日本社会がローカルなレベルへと自壊していく。

著者は本書にまつわるインタビューで嘆息している。
グローバリズムに無批判な、安易な本しか読まない人々の日本語は、すでに自国の文学を持たない、現地語に墜ちた響きを感じる。
同時に、英語で翻訳されることを意識して小説を書けば、日本語の醍醐味は消える。

暗に某W村上や某吉本ばななを批判している気もするが(笑)、まぁ、それはおいておこう。

ではどうするべきか

中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、とりあえず少数精鋭の二重言語者を育てる。同時に国語教育の充実、古典を重点的に読ませ訓練を積む。

要するに、
「日本語」
がまともに亡びると言っているのではなく、
「現地語」
に転落した言語は、かつての近代国家勃興時の、
「国語」
のように普遍的な問題、深遠な領域を互いに語れなくなり、外から情報も取れなくなって没落するのではないか、という危機感、問題提起であると僕は解釈した。これは日本に限らず、「現地」に帰属しつつ「普遍的」な部分と繋がらざる得ない人々にとっては、より切実な問題となっていくのだろう。

が、一方で僕はこうも思う。というか、ここからが僕の意見、昔からの持論なのだが...

文学、言語に限らず、音楽も映画もあらゆる芸術も、あるいは科学技術も全て、基本的には「大衆」に向かって開いていく意外に道は無いのだ。実は、英語そのものがそうした流れに沿って変質を余儀なくされてきた言語であり、何も米英の勢力拡大ばかりが英語の普遍性に寄与したわけではない。英語はフランス語やスペイン語に比べ、性質としてはるかに「ポップ」なのだ。

たとえ一般の日本語が現地語化するのだとしても、前向きにポップ化の方向を向いていればそう捨てたものではない、むしろ容易に英語その他の普遍語と気軽な範疇で相互変換出来た方が、戦略的には有利ではないかとさえ思うのだね。まぁ、このへんの感じ方は、普遍語に不自由で基本はあくまで現地語な僕と著者の教養の差なのだろうけれど(笑)
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