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女真人来り去る

久々に(約二十年ぶり)再読したのでちょいとご紹介。

『韃靼疾風録』(1987)
だったん

司馬遼太郎最後の長編である。

時は17世紀初頭九州平戸。豊臣家から徳川家の支配に移行しようという過渡期。主人公は平戸松浦家の若き下級武士、桂庄助。彼が困難な任務..漂着した韃靼(女真族)の公主アビアを彼女の祖国に送り届けよという命を受ける。もちろん単に親切心からではない。海を挟んで対峙する松浦家としては、秀吉の侵攻以降衰退した明朝を圧迫するアビアの部族の動向を探り、有益な情報と人脈を得たかったのだ、が...

謎めいた異国の姫君アビアが実に可愛い、魅力的。映画化するとしたらチャン・ツィイーが適任のような、高貴な野生の娘だ。グイン界なら今は亡きリー・ファだろうか。
当然庄助も彼女のことが好きになるが、言葉も習慣も身分も違うから展開はもどかしい。この二人の恋路を眺めながら、17世紀の中国大陸動乱の現場を読者が「疑似体験」していく物語と言えよう。司馬さんの長編としては、決してまとまりの良い方ではないのだろうけれど、僕は個人的にとても好きな作品である。

さて、『韃靼』というあまり聞き慣れない名称について少々。

上巻p.69より

じつをいうと、タタール(漢字表記して韃靼)とは、もともとモンゴル民族内部での一部族の呼称にすぎなかった。元以前の宋代の漢民族が、モンゴル人全体を韃靼とよびはじめ、元代ではそのようによぶことをはばかって表面ではそういう呼称をつかわなかった。元がほろぶとき、中国大陸を支配していたモンゴル兵は、土地に執着せず、風のように騎馬で北の草原へ帰って行った。そういうふしぎな滅亡の形態を当時、北帰とよんだ。明帝国では、草原に北帰したモンゴル人のことを、卑しんで韃靼とよぶようになった。

Wikiにもこうあるように、

タタール(タタール語:Татарлар Tatarlar、タタルとも)は、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。
タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。

特定の民族を確定的に呼んだ呼称ではないのだね。必ずしも現代のタタール=韃靼とはならない。

ちなみに、司馬さんも後書きで触れているが、「満洲」も本来地名ではない(地名表記とすれば<満州>)。満洲は民族名。清朝の太祖ヌルハチの頃から、ツングース語系の人々に文殊菩薩(梵名マンジュシュリー)信仰が広まり、自らの部族を「マンジュ」と呼ぶようになったらしい。二代目のホンタイジから正式に「満洲」と表記するようになったそうな。

Wikiにもこう断り書き。

「満州」の漢字は満州語の民族名Manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」と表記されていたが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い。

勇猛な女真族の本尊が文殊菩薩で、民族名の語源にもなっているというのはちょっと意外な気もするよね。

ついでに後書きを足掛かりにもう少し(今回の日記タイトルは後書きのタイトルでもある)

清朝第5代雍正帝(在位1722-1735)の御世に、満洲族政権の打倒を叫ぶ漢族の知識人、曾静なる男を捕らえた事件があったそうな。帝(当局)は彼を取調べ、諭した。

中国は漢族だけの国ではない。古来多くの民族の住地である。政治的統一をみたのも最近のこと。漢族もまた多くの民族の混血と文化の摂取により出来上がったもので、固有の漢人などいない。汝の主張は小さな中国だけを想定している。いまや清朝はそうした狭さを越え、モンゴル人も含む大いなる中国をつくったのだ。それでも汝は漢人意識に閉じ篭るか。

曾静は心から服したため、無罪放免されたそうな。

雍正帝は名君ながら、一面で恐怖政治、文人弾圧でも知られた強烈な皇帝なので、司馬さんが取り上げたこのエピソードも当然脚色されているだろうし、むしろ一種の伝説、統治側の政治的宣伝と見るべきものだろう(おそらく出典は『大義覚迷録』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%BE%A9%E8%A6%9A%E8%BF%B7%E9%8C%B2

が、最盛期の清朝は勇猛な満洲族としての英気を保ちつつ、中国古来の文明、儒教的世界を墨守し、学問、芸術の振興に務め、史上最大の版図を得るに到ったことは事実。そして、この多民族帝国としての清朝の性格、功罪、光と影は、現代中国にそのまま繋がってくる問題だと僕は思うのだね。上記の逸話などそのまま使えそうだ。

衰弱した清朝末期、近代の入り口で西洋列強、日本の圧迫を受けたかの国の多数派たる漢族(と意識している人たち)は、再び民族主義的なエネルギーをもって反撃に出、『滅満興漢』のスローガンを唱え燃え上がる。司馬さんの言葉を借りるならば、

漢族の革命家たちは、<満>という夷狄王朝の口に、垢だらけの肌着になってしまっている中国文明というぼろきれを押し込んで窒息させたのである。できれば夷狄の王朝もろとも古い文明をほろぼして新生したかった。

少々言い過ぎな感もないことはないが(笑)、司馬さんがこれを書いたのは日中関係が悪化する前であり、決して政治的状況を踏まえた発言ではない。にしても、「滅満」と「反日」に何かしらの共通項、共通する精神構造を覚えるのは僕だけではないだろう。

歴史とは皮肉なもので、異民族王朝であったがゆえになおさら古典的中国を温存し続けてきた清朝を倒し、旧支配層満洲族を併呑することによって(ついでにウイグルやチベットも)、近代中国(中華民国、その後の人民共和国ともに)は一挙に強国に達しようとしたのだね。それより半世紀ほど先行し、徳川幕府を滅ぼして琉球やアイヌを収め明治国家に生まれ変わった我が国も似た点はあるけれど、力の集約点として天皇を戴いた日本の「維新」は、同時に神話的な「復古」でもあったわけだ。これは世界史上においても特殊な構造だったろう。

が、本質的な性格、規模の違いはあるにせよ、狭義の近代『日本』も『中国』も、悠久の歴史から見ればごく最近になって誕生した、生まれ変わったという点では変わりはない。僕は現中国や朝鮮半島、ロシアという「隣人」に対しては日頃厳しい意見を述べるケースが多いけれど、狭い時代的スパン、テリトリーで争うことは不毛以外のなにものでもないとずっと思っているし、もちろん司馬さんもそう言いたかったに違いない。

いわゆる「司馬史観」に関しては、司馬さんの没後いろいろ批判もされるようになったし、僕も異論は..特に第二次大戦期の事柄に関してはあるのだけれど、司馬史観の真骨頂は戦国期や幕末期をコアとした日本論、日本人論以上に、中国、朝鮮、更に内陸を含むアジアを広く視野に入れた文明論にこそあると思う。仮に細かい表現で史実と違っていたとしても、「小説」「エッセイ」としての作品評価を大きく崩すことはないはずだ。迂闊に自国を誇れない、無味乾燥な日本史しか習えなかった世代にとって、司馬文学は「一般教養」の一つだったのだから。
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